パソコンと悪戦苦闘しながら毎日のあれこれ綴ります。

パソコン音痴主婦がブログ始めました。

私が仕事で悩んだとき

こんばんは、くにっぽです。

 

 今日は、私が社会人になったばかりの頃の話をしたいと思います。

 

 私は、某大手の銀行に就職しました。

その支店は店舗が一階と二階に分かれていました。

 

 一階は預金課、総務課、出納課があり、二階は、融資課、外為課、得意先課、貸金庫、支店長室となっていました。

 

 同期入社したのは、男女合わせて8人です。

私を除く全てが一階に配属され、私1人が融資課として二階に配属されました。

 

 当時はまだ、ATMが設置される少し前で、一階の預金コーナーはいつもたくさんのお客様で混雑していました。

 

 それでも、5時がきたら新人は早く帰れていました。収支が合わない場合を除けば、預金課は時間通り帰れました。特に新人は。

 

 ところが、二階に配属された私は、当時、6時になって、やっと先輩達が「ソロソロ終わりましょうか」って言ってくれてから片付けが始まります。

 

 いつも、私が新人の中で1番遅かったのです。

当然、同期は帰った後で誰もいません。

 

 帰る方向も、皆は電車。私は店の前のバス停からバス通勤でした。

 

 数ヶ月経っても同期と交わる機会がありません。皆はどんどん親しくなるのに、なんか取り残されている淋しさがありました。

 

 でも、誰が悪い訳でもないのは、分かっていました。意地悪されてる訳でもないのですから。

 

 ただ、仕事でも、休憩時間でも同期や預金の先輩達と親しくなる機会がありませんでした。

 

 そして、新人には指導員がいて、、ひとつ上の先輩が仕事内容を教えて、行動も共にする事になっていました。

 

 又、その先輩が悩みのタネでした。まず、少し変わっていて、共通の話題を探して話すのが大変だったこと。

 

 私はどちらかといえば、協調性はある方だし人と話すのも好きな方なのですが、先輩の話がなんか「えっ」っていう事が多くて困っていました。

 

 それと、先輩は自分の同期達といつも別行動を取ります。だから、先輩と一緒にいる私は他の先輩達と余り関われなくなります。

 

 1番困ったのがお昼の時間です。当時45分あった全てを使って食事するのです。私は出来るだけゆっくり食べても20分もかかりません。

 

 すごくマイペースな先輩は、悪びれる事なく私を待たしながら、ほぼ全部の休憩時間を使ってしまうのです。

 

 ですから、休憩室へ行く事が出来ません。皆がそこに集って談話してる場所、唯一、他の先輩達と話せる場所へ行くことも出来ませんでした。

 

 また、二階は私1人が新人なので、毎朝、誰よりも早く職場に行きました。

 

 二階全部の机、丸テーブル、支店長室、カウンターと雑巾掛けをし、パラパラと出勤しだす先輩たち17名程に順番にお茶を入れていました。

 

 また、支店長や、次長、課長の大事なお客様がよくお見えになるので、そのたびにお茶出しをします。

 

 一階ならそれは総務の仕事になるのですが二階は全て私がすることになります。

 

 そして、二階には貸し金庫もあり利用されるお客様の応対も当然、私がすることになります。

 

 それと、電話は新人が出ろと、言われているので電話も取らなくてはなりません。

 

 でも、私には新人がする郵便物の発送手続きもあります。

 

 その上で先輩と同じ融資課の仕事があります。

 

 どうしても、私の本来する融資課の仕事がなかなか、手を取られ進まないと、「K、早くしてよね」って、先輩から言われます。

 

 私の行動を見てたら分かりそうなものなのに、もの凄くそれもストレスになりました。

 

  お客様が立て続けに来られたりした時は、手伝ってくれますが、基本、私の仕事のように扱われます。

 

 まだ、皆とコミュニケーションが取れているならいいのですが、その頃、融資課はシーンとしていて、私は、毎日黙々と仕事をこなすのみでした。

 

 時々、次長さんが二階に来られた時にいつも、「ポンポコリン、元気か?」って、声をかけてくれていました。

 

 次長さんには、私に元気が無いのがわかったのだと思います。

 

 私はいつも二階から一階に行く階段の踊り場においてある姿見に向かって「はい、チーズ」と笑顔を作ってそこを通るようにしていました。

 

 自分に元気を与えたかったんです。

そして、1年が過ぎても、何も変わることはありませんでした。

 

 そんな時、時々、声を掛けてくれていた次長さんが転勤してしまいました。それを機に、なんか一変にこの仕事がつまらなく思えました。

 

 後、何年経っても、この職場で私は笑顔になれないと、思えました。

 そして、遂に父に「仕事を辞めたい」と言うことにしたんです。

 

 父は、私が銀行に入行した時、とても喜んでくれました。なのに、2年も経たずに辞めたいと言うのは、とても勇気がいりました。

 

 多分、反対するに決まっている。昔から「石の上にも三年」と言う言葉があります。

 

(でも、今は私の頃と時代が違います。本当に心が折れているとき、仕事や人間関係で悩んでいるとき、身体を休める時間も取れないなど大変な思いをしながら仕事を続けている人は、我慢しすぎないでください。一番大事なのは、あなたの身体です。)

 

 『どんは仕事も、最初は大変に決まっている。お金を稼ぐんだから、多少の辛抱は、必要だ。3年も続かないようなら何処へ行っても一緒だ。甘えている。辛抱が足りない』

と、絶対に父はそう言うと思っていました。

 

 でも、私には、限界でした。真剣に父に訴えました。

 

 私が話終わるまで、黙って聞いていてくれた父が、ポツンと言いました。

 

 

「そうか、分かった。Kの好きにしたらええ。いつ辞めてもええぞ。」

 

 一瞬、ポカーンと、してしまいました。

えっ、そんな言葉が父から聞くとは想像していなかっただけに、返って焦ってしまいました。

 

 でも、父が私のことを理解してくれた。

私の気持ちに寄り添ってくれた事が嬉しくて、もう本当は一日も早く辞めたかったんだけど父の言葉が嬉しすぎて

 

 「でも、せめて丸2年までは行くね。ありがとう、お父さん。」って言ってしまいました。

 

 その後、2年経つ前に私に転勤の発令がありました。他の支店で急に退職者が出て、私に転勤の辞令が出たのです。

 

 3月いっぱいで辞めることを会社側に言おうと思っていた矢先でした。

そこの店舗は一階のみの店舗ですべての課がそこにあります。

転勤の発令が出たばかりで、辞める話はしにくく結局しませんでした。

 

 そして、転勤にあたり支店長から「どこか行きたい課はありますか?」って聞かれたので「普通預金に行きたいです。」とはっきり言いました。

 

 その後、私は転勤し、普通預金、当座預金、融資課、貸金庫など経験させてもらいました。

 

 若い人が中心になって活動する青婦人部会の役員にも進んでなり、クリスマスパーティや運動会やキャンプや慰安旅行などの幹事も引き受けました。

 

 皆と一緒に何かするのが嬉しかったし、楽しかったんです。それによって、店の皆から愛称で呼んでもらえました。

 

 どこで仕事しても一緒と、言われる事がありますが、私はそうは思いません。決して一緒ではありません。

 

 私は、あの時、父が「辞めてもいいぞ。」って、言ってくれた事で転勤まで我慢する事ができました。

 

 そして、前支店の事があったから、余計にいろんなことに頑張れたと思います。

 

 結局、同期で1番長く勤め丸8年がきた時に辞めました。この支店では、仕事も充実していましたし、心からの笑顔で人と接する事ができました。

 

 改めて、転勤できてよかったです。

この支店で、たくさんのいい思い出ができました。f:id:kumato117:20180506230457j:plain

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました。