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母のこと

こんにちは、くにっぽです。

 

 今日は母の命日なので少し母のことを書きたいと思います。

 

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 母が亡くなってもう、3年になります。

 

 母は9人兄弟の5番目の次女に当たります。九州の田舎育ちでしたが、中国の満州に出稼ぎに行っていました。

 

 当時、満州は日本の支配下にありました。兄弟が多かったこともあり、口減らしの意味もあったのでしょう。

 

 母親(祖母)から頼まれて、20歳前の母は満州に渡ってハルピン会館(今で言う映画館や宝塚歌劇などの上映がされていた会館)で働いていました。

 

 母の話は、まるで映画を見てるような波乱万丈でした。

 

 戦争で負けたことにより、今まで貯めていた貯金や身の回りのものすべて没収され、若い人は捕まりロシア(シベリア)に送られようとしていました。

 

 そうなればもう、二度と日本に帰れないと、明日、シベリアに送られるという前の晩に数人の友達と一緒に脱走したそうです。

 

 直ぐにサイレンが鳴り響き背後から銃で撃たれる中、死にものぐるいで逃げたと聞きました。その中で撃たれた友もいたそうです。

 

 日本に帰る為の船は、いつも出ている訳ではありません。

 

 その為、その船に乗れるまでの間、日本人であることを隠しながら、そして中国の友だちにもかくまってもらいながら過ごし

 

 やっとの思いで着の身着のままで日本に帰って来ました。そんな、格好なので、夜中まで待ち実家に帰ったそうです。

 

 母はその時に『腸チフス』という伝染病にかかっていました。

 

 そのため隔離入院して治療したのですが、祖母の看病の甲斐あって若い母は治りました。

 

 ただ今度は祖母がかかり、亡くなってしまいました。母のその時の悲しみや苦しみはどんなだっただろうと、思います。

 

 そんな事もあり、家を出て民宿で働き始め、その後、父と結婚しました。

 

 だから、当時としては遅い結婚だったと思います。

 

 田舎から大阪に出てきて父と家庭を持った母。

 

 母は誠実であまり冗談の通じないタイプです。要領はどちらかというと悪いほうでした。

 

 でも、人の悪口は言わないし、正直で、引っ込み思案なところがあり、人を押しのけるタイプではなく、我慢してしまう人でした。

 

 そんな母ですが、子どもの話はいつもよく聞いてくれて、よくほめてもくれました。

 

 私は、昔から人の話を聞くのが大好きでした。

母の子供の頃のことや、娘時代のこと。

 

 父との初めてのデートなど。

 

 でも、母にとって結婚生活は大変だったと思います。

 

 まず、全く身内がそばにいない。少しでも手助けしてもらえる環境になかったこと。

 

 年子で子供ができ、電化製品も今のようにないなか、自転車にも乗れなくて、

 

布オムツでご飯も、お風呂も薪で炊いて、掃除も洗濯もタライやほうきを使っていて、

 

 本当、大変だったと思う。まして、その3年後にまた、弟ができたのだから。

 

 徐々に電化製品が増えはじめ少しはマシになっただろうか。

 

 

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 母に「お母さんって大変だね」って言った事がありました。

 

 そしたら、母は「子供は勝手に成長してくれるから助かる」って笑って

 

 「ちょっと、大きくなったら留守番もしてくれるし、上の子が下の子の面倒もみてくれるからね」って言ってました。

 

 実家は大阪から三重県に引っ越しました。

 

 私が結婚して大阪の豊中で暮らすようになった時、母は遊びに我が家に来るのを楽しみにしていました。

 

 その頃、もう父は亡くなっていたから。

 

 よく、遊びに来たら、赤ちゃんだった娘をお風呂に、喜んで入れてくれました。

 

 すごく嬉しかったし、有り難かったです。

 

 母はいつも、よくほめてくれました。

 

 夫のことも「Tさんはいいね。器用やし日曜大工でいろんなもの作ってくれて」とか

 

 「Kちゃんは、Tさんと一緒になれて良かったね」とか言ってくれました。

 

 それと、田舎育ちの母は、草花や野菜や自然のことが詳しくて、夫もわたしより詳しい。

 

 それと時代背景が私より夫の方が歳が近いから話が合うのか、夫が合わしてくれているのか母も嬉しそうに話していました。

 

 そう言えば、母と2人で長野に旅行したことも、母と娘と三人で有馬や鳥取に旅行したことも、いい思い出です。

 

 私たちが香川に引っ越した後も、母は2回ほど遊びに来てくれました。

 

 母は私に

「お父さんも、あんた達がみんな独立して2人になると、昔みたいに怒らなくなったよ。

 

お前はこういうところ、こうしたらいいんやでって、優しく言ってくれるようになってね。

 

それに、お父さんと、おにぎりと水筒持ってよく出かけるんよ。」

と、嬉しそうに言いながら写真も見せてくれました。

 

 そんな時、やっぱり夫婦のことは夫婦にしか分からない。子供でも口出すものじゃないなと思いました。

 

 そして、あの時、両親が別れなくて良かったとつくづく思いました。

 

 そして、父が亡くなってからは、今まで以上に母は父に感謝していました。

 

 「 お父さんが、いろいろ考えていてくれたから、ちゃんと私は今、生活できている。

お父さんのおかげやね。」って。

 

 母は、晩年は少し認知症になって来ていましたが、子どもや孫のことは忘れませんでした。

 

 時々、「えーと、ほら、Kちゃんの娘の名前、何だったかなー。」

 

 って聞くことはあったけど、名前をいうと「そうそう、そうそう、そうやった。」

って言ってくれる。

 

 最後まで

「私は、幸せやなー。皆に良くしてもらって。」と、よく口にしていました。

 

 私が母に会いに行くと満面の笑みで

「Kちゃん、来てくれたんや。遠いのに悪いなー。Tさんに、悪いなー。」

 

 と、言いながら嬉しそうにしてくれる。

 

 私は良く母に、

「私の名前忘れてない?」って、会うたびに聞きました。そしたら、

 

 「娘の名前、忘れるはずがない」って、笑いながら応えてくれました。

 

 他のことをよく忘れたり、何度も話がループしたり、時代が行ったり来たりしてもです。

 

 そんな母のこと、大好きでした。

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました。